昭和四十三年三月二日 朝の御理解


  信心を深い味わいのものにする為に、いよいよ有難いおかげを頂かして頂く為に、信心を限り無く美しいもの、深いものにして行かなければならない。人には場合によっては、言い訳しなければ、自分の立場を解らせる事ができないかえって誤解を招くような場合ががざいます。けれども、神様の前には、言い訳は無用である。人の前には、言い訳が必要な場合がある。でないと、誤解を招くことがある。ああでしたから、こうでしたから、あんまりそれを並べ立てることはいけませんね。けれども、やはり「実はこんなことでしたから。」というその言い訳も必要ですえども、神様の前、ここで言うならば私には、言い訳があっていいんです。「実はね、今日はこんな訳でしたから」でないと、私が誤解をする場合がある。けれども、神様の前には、言い訳があってはならないのです。と言う程に、自分に厳しからねばならないという事なんです。神様のまえでは、もういよいよ自分ていう者を厳しゅう、神様の前には言い訳はとうらん。
 今日、時間を遅らかしました。途中、こんな事でしたから、例えばね、それは、やっぱり、こんな訳でしたから言わなきゃわからないけれども、神様にはそれは通用しない。結局、私の不行き届きであり、私の不熱心が、そういう事になったんである。と云う生き方いく以外にない。という程に、自分を、いよいよ厳しゅう見極めてゆかねばいけません。同時に人には笑われても神様から、笑われてはならんという信心が必要です。人が聞いたら馬鹿じゃなかろかと言われてかまわん。神様から、笑われちゃならんという、言うならば、馬鹿ほど素直と、でも申しましょうかねえ。神様から笑われてはならん。それにはどうしても自分中心じゃあない、やはり、いつも神様を中心に申し上げた、信心生活ができておりませんと、どうもいけません。人からは立派だと言われても、神様からは、笑われている人がある。神様から、笑われん様にしたい。久富繁雄さんが、豚を買われた、時のお話をいたします。きつかでしたか、勿体島と両方にある、豚の子を買われる。お伺いされると、勿体島の方から買われたがよろしいでしょうという事であった。早速息子の国雄さんが、行ったところが、もう売れてしまって、一匹しか残っていなかった。しかもそれはがい子で売られないという豚であった。
 そこで先生は、ああおつしゃるけれども、というので、きつか迄行った、そこには、もう何頭も、立派な豚がいた。
 そこでもやはり、父がそういうとるから、一応かってというので帰って、勿体島でこうじゃつたとこういう。ところが、繁雄さんが云われるのに、親先生が、勿体島の方から、買えて言うちゃるけんで、勿体島の方から買わにやいかん。こりやあ、もういい子で、あげんとでどうなるか、又向うも、こりゃあがい子だから、と云うて、売ろうと言わない。売る事をすすめない。ばってん、お前考えてみると、そういうがい子だからこそ、神様は、久富の家に買って、そういうがい子を立派に育てよというような、御神意があるのかもしれんから、勿体島の方から買おう、というて、買わして頂いた。まあ人からみると、馬鹿のような話である。この辺がですね。人から笑われても、神様から笑われてはならんという信心なんです。
 そして二度目にやってくる、たいがいの人が。
 そして、こういう訳だからというて、神様でも取り次ぎの者でも、まあそんなら、きつかの方から買うようにお願いしましょうと云わねばならない様に言う、利口なんですよねえ、その辺のところをですね、体験させてもらうと、いよいよ、信心が、深いものになってくるんです。神の一言と云うのは、何処までも限りがない重みのあるもの、深いもの、いよいよ味わいのあるもの、その豚が、立派に育ちました。というてもやはり小さかったそうですけれども、大変よく、もちろん子豚を取るためのものですから、大いにその多産系のものではあった。それには、その間随分いろんな信心がございましけども、その辺のところをですねえ、私は人に笑われても、又悪ういわれても、神様からは、笑われちゃあならん。という素直な信心、そこには、何処まで深いか解らないという味わいが、そのさきに感じとる事ができる。この辺ところがですねえ、難しいといやあ難しいけれども、深い信心を、味わいのものにする、いよいよ自分に厳しゅう、それは夕べ遅うございましたけん、今朝は御無礼してしまいました。そういう訳はね、絶対神様には通らんみのとせにゃあいかん。だだ人には言い訳しなければ誤解をまねく事がありますけれだも、それとてもやはり言い訳というのは、あんまりいいものじゃあありません。済みません私が、不行き届きでと云った方がいいくらいです。必ずその言い訳を神様にする人がある。夕べ遅かったからと云うて、本気で神様に向かっておる時ならば、夕べよし寝とらんでも、例えば遅くなるような事ないです。自分の不熱心、自分の不届きをです、恥じ、又詫びる以外にはないんです。自分にいよいよ厳しゆう、いよいよ馬鹿程に素直に、それには人から笑われても、神様から笑われちゃあならんという信心、いよいよ信心の深さを、そこから感じ取ることができる。云わない人はですね、何処まで信心が奥深いやら解らない感じでしょうが。久留米に初代の光橋先生なんかは、なかなか口を開かない人でした。どうかして言わんでにやっとわらうだけで、私達は、それを、説明したり、言い訳しなきゃあならん。
 だから、親先生の信心は、あそこまでだというで、底が見える感じがする。ところが、光橋先生の場合なんか、光橋先生は信心が深い、何処まで深いか解らんと皆んなが言うとりました。これはまあ人ですけれどね。それでも、やはり、言うよりかいわんで、ずっと自分の心の中に、そこんところを詫びぬいてゆく信心、言い訳をせんという信心、そして自分の不熱心、自分のお粗末御無礼を詫び自分は、この位らいの人間であると、言うことを、自分自身が、恥じいっていく気持ちにならにゃあいかん。言い訳ばかり、自分はこげんつまらんち言う様なもの。実意がない。実に不実意である。実のある人はなかなか口を開きません、実のない人程、口に出します。自分のおかげを受けている事を、それを喜びとともに、神恩報謝の心と共に、出てくる言葉なら有難いけれども、自分な心にもないことを、いろいろ口から言うようでは結局そのいわゆる程度が知れる。むしろ、そんないわん方がええ。まあこれは人の場合ですけれども、神様の場合そこんところをですねえ。神様の前には、絶対言い訳はたたんだと、私が恥じているより他にない、私が詫びいるより他にない。そういう信心を頂きたい。
 昨日の朝縁なき衆生は度し難いという様な御理解を頂きましたですね。昨夜の月次祭のお説教の中には、たとえ縁が有っても度し難い、氏子があるという御理解でしたねえ。縁有るところじゃあない。毎日お参りしておっても、助け難い、いわゆる神様が度し難いと思われる私達がそこにあるという事です。そんなら、どういうような私共が状態であるから度し難いのか、勿論、神様の前に不実意であるからと、いやあそれだけですけれども。今朝の御理解を頂かしてもろうて、神様の前で言い訳ばかりしておる。それでは、神様が度し難いとおっしゃると思う、自分がここから本気になろう、自分が本気になって恥じ入って、神様の前に、おわびさせて頂いて、それでおかげ頂くと云うのではなくて、神様の前言い訳ばかり。人のせいにする。あれのせいにする。こういう訳だったからと事情のせいにする。同時にさあこここそ、いよいよ素直に受けてゆかねばならなん。と言うところをです、そこをなんとはなしに、自分で、崩してゆくような事をする。本当に深い深い御神意とういか、神様の心の、まあいっちょう向こうの奥の方の心に触れるということはです。信心の深い味わいをあじわあわして頂くという事なのです。ひとつのお伺いに致しましてもです。あれがあの時に、例えば繁雄さんが、ああそうと、国雄さんの言う事を聞いてから、そんならもういっぺんお伺いしなおそうかいうて逃げておったら、おそらくは、そんなら、きつかの方から、買いなさいとゆう事になるに違いない。もう自分自身の心の中に迷いが起こっておる。それでは例えばあれがその素直と言う、意味合いにおいても、代表的な話しになっておるように、あとに残るような話になっておる様に、それでも親先生が、勿体島からと、おっしゃったのだからと言うて、勿体島のを買わにゃんという、そこに神様の深い深い御神意、思い召しいうものをです、あっても、それを感じ取ることができんのです。そこを通らなければ、そういう心の状態にならなければ、たおえば縁あって合楽にお引き寄せ頂きましても、神様が渡し難いと言うのは、そういう事じゃなかろうかと、こう思うのです。たしかに縁なき衆生は渡し難いのだけれども、縁があっても渡し難いと言う、いわゆる人種がある、たくさんある。いよいよそこを深いもの、しかも味わいのある、本当に恐れ入ってしもうという、おかげの味わいを、味わいいただかして頂くために、神様の前に、言い訳はしてはならんというより、神様の前にはもう成り立たんのだという事。本気で、神様が肌で聞いて頂いているような感じがします。言い訳は。人間の場合はそうじやあないけれども。言い訳無ければわからないこともあるけれども。あんたが不信心だからと、あんたが不熱心だたらというて、神様がその言い訳をそういうようなきもちでお聞きになっておるような感じがする。すみません、例えば五時なら五時にお参りさせて頂きます。途中で車がパンクいたしました、それで遅うなりました。そんな言い訳はたたん神様の前で自分の信心が実意がたりんからパンクしたんだ、実意がたりんから遅をなったんだ、というこれで行く以外ない、と言う程にね分に厳しくあれという事、自分というものに、ぎいりぎり厳しゅうなからねば、信心は進められません。同時に、深いいよいよ神様の心の底を味あわしてもらう解らしてもらうために、いよいよ限り無く、素直に成らしてもらってね。そこんところを例えば人がよし笑うても、神様から笑われちゃあならんという信心、その時繁雄さんが、もういっぺんお伺いに来て勿体島の方から買わずに、きつかの方から買っとったら、これは素直というばってん、こんくらいのもんかと言うて、神様が笑いなさるだろう。なる程、買うた事は、勿体島の方のよりかは、立派かもしれん。けれどもそういう事では、こういう結果になるぞというて、そこの隣にですねえその時、何とかというすもうとりさんがおりましたがね、横綱が。それと同じ大きさの大きな豚じゃった。隣に時を同じゅうして養われた。ところが大きいばっかりで、片一方は、いっちょん生まじゃったと言う実証をしておられる。その時話の中には、ところが、あんたけんとは本当に、こんないい子んとしとるばってんか、どうして、こげん生むじゃろうか、と言う事だったですよ。
 ですから、なるほど、神様の前にですねえ、例えば素直さを欠くというかね、そこんところをもういっぺんっ疑ったようにですねえ、神様からあげん頂だいとったばってんこうでございますというような信心はですねえ、きつかから、豚を買うたと言うようなおかげしか受けられんのですよ、その、まあいちょう、深か-味わいというところには、触れる事は出来んのです。しういう信心を、めざして頂くところに、成程、縁を頂いておったおかげでこういうおかげが受けられると言う、縁が縁として、本当に出来てくるおかげになってくると思うのです。どうぞ。